AS21085 刀:肥前国住人忠吉作(初代 忠吉)

説明

ご注文番号:AS21085

刀:白鞘入り、拵え付き(特別保存刀剣)(委託品)

銘:肥前国住人忠吉作(初代 忠吉)

当社では刀工の出来によって最上作、上々作、上作、普通作を記載しております
本作の出来は肥前国住人忠吉作としては上々作にランクされる作品です。
研磨済み
はばき:銀二重鎺
刃長:2尺4寸5分(74.24センチ)
反り:4分(1.21センチ)
目釘穴:1個
元幅:3.17センチ
先幅:2.15センチ
重ね:0.71センチ
刀身重量:835 グラム
時代:江戸時代寛永の頃
体配:身幅が広く重ね厚く反り適度に付き
切先が延びた体配の良い姿をした作品です。
地鉄:小板目肌じつに良く詰んで地錵が良く付き
無類の地金となる。
刃紋:錵出来小足が柔らかく良く入り葉も働く。 
帽子のたれて先、匂口の深い丸みを帯び尖りごころの刃紋と成る。

特徴:新刀期における肥前刀は極めて重要な位置を占め、
主流の忠吉家をはじめ各流派が出て展開した。
初代忠吉は肥前長瀬村(現在の高瀬村)で元亀三年(1572)に生まれ、
橋本新左衛門と称し、元は武家であったとも言われる。
祖父は内蔵允盛弘といい竜造寺家に仕えたが、天正十二年(1584)島原で戦死。
父壱岐守道弘も祖父と同年に病歿す。忠吉は十三歳で
長瀬村の某鍛冶工(肥後同田貫善兵衛)の家に倚り刀剣鍛法に従事した。
慶長元年(1596)藩命により一門の宗長と共に京の埋忠明寿門に入り、
忠吉は鍛刀を、宗長は彫刻を学んだ。慶長三年(1598)に帰国。
佐賀城下に転任し佐賀藩鍋島家の抱工として活躍した。
最初の年紀作は慶長五年(1600)二十九歳に始まる。
元和十年(1624)再び上京して同年二月三十日改元、
寛永元年(1624)五十三歳で武蔵大掾受領後に忠広と改銘。
同年帰国。寛永九年(1632)八月十五日六十一歳で没した。
初代忠吉は約三十年にわたって作刀したが駄作がなく
どれも水準以上の出来が優れたものである。「肥前国忠吉」と五字銘に切った為、
五字忠吉と通称がある。京の國広と並び賞される新刀の名工で
新刀最上作にランクされ、最上大業物。
忠吉家では二代忠広、七代忠広を除き代々が忠吉銘を踏襲した。

拵え:金無垢一作拵
鍔:金無垢(120グラム)で海鼠透かしに海の荒れる模様を高彫りする 銘:章眠作之
縁頭:金無垢(推定60グラム)での荒れる海の波模様を高彫りする 怕翁斎?山作
目抜:龍の図 金無垢
柄を金無垢で高彫りする
鐺:栗型 金無垢で波の図柄を高彫りする。
鞘:橙色に金無垢の薄い板を巻く

葵美術より一言: 忠吉は当初五字忠吉と名乗り次に肥前国住人忠吉作と称し次に武蔵大掾藤原忠広と替え
肥前国住藤原忠広と換えてきました。重要な点は住人忠吉と切る場合は必ず作を最後に付けます
又忠広の最初の一点は菱形に切るのが特徴です。それと重要な点は刃区近辺をみると分かるのですが刃紋は
刃先に接している事はありません。もし刃紋が刃先に達している場合は偽名を疑って下さい。
例外はあるやも知れませんが未だ見た事がありません。
本作は佐賀県の登録で 昭和26年1月28日となったいる大名登録です。
是非この長寸で茎穴1ッ個で健全な作品をお求め下さい。
なお拵えは鍔、目抜、縁頭、鐺、栗型は金無垢で鞘は橙色に金の板を巻いた豪華な作品です。
鍔と縁頭で焼く180グラムあり鐺、栗型が推定80グラムあると考えられます
豪華絢爛たる拵えは安土桃山時代の作品を模して制作したと考えられます。

特別保存刀剣鑑定書
葵美術評価鑑定書:全身押し形


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2021/04/03 (土) 16:24

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